ロックンロールに蟀谷を

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より情報の多い道?後から変更できるプラン?人生の選択を誤ってしまうのはなぜか

 『明日の幸せを科学する』読了。

 なかなかにスリリングな読書体験だった。

 

 ヒトは、未来を想像する動物だ。

 我々が日々、行動や情報の選択を行うとき、我々は無意識にその選択によって起こる未来を想像し、その想像に基づいて決定を行っている。

 しかし、その選択は結構な頻度で失敗に終わる。失敗というのは、より自分が幸せになるほうを選んだはずが、思ったように幸せになれないという意味だ。

 あれだけ切望してようやく手に入れたものが、手に入ってみると別に必要なかったことに気づく。

 長年の夢だった職業に就いてから、どうしてこんなものに憧れていたのかと首を傾げる。

 なんでや。それは、「想像」が我々の想像以上に欠陥品で、しかも我々がそのことに気づいていないためだというのが本書の論旨だ。

 

 本書では、「想像」の欠点を、大きく3つ挙げている。

 1つ、想像は勝手に「穴埋め」や「放置」を行う。

 2つ、未来の想像には現在の姿が投影される。

 いずれもはっとさせられる興味深い内容だが、ここではもうひとつの、3つめの欠点について紹介してみる。

 

想像した未来に自分が抱く感情は想像通りではない

 ヒト以外の動物が外界に現前する刺激そのものに反応するのに対し、我々人間は、心に再現前化した刺激の表象に反応する。

 わかりやすい例として、認知心理学の教科書には必ず登場する、以下の画像を本書より引用。

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 上段と下段の真ん中の文字は全く同じものだが、多くの人は自然にこれを「THE CAT」と認知する。

 このように人間は刺激に意味づけを行い、刺激そのものではなくて、その「意味」に反応する。

 刺激の意味づけに用いられるのは通常、文脈・頻度・親近性といった要素であるが、もうひとつ重要な要素がある。

 人間は、自分にとっての「好ましさ」に基づいて刺激に意味づけを行うというものだ。


 このことの説明に本書で挙げられていたのは、有名な「クレバーハンス」の事例。

 1891年、ドイツのオステンは、利口な飼い馬ハンスが時事問題や数学の問題などに回答できると主張。

 オステンが3+5は?と質問すると、ハンスは前脚で地面を8回叩いてみせる。ハンスは一躍人気者になった。

 だが後に心理学者の調査で、ハンスは質問を理解していたわけではなく、オステンの身体の動き(身を屈める・身体を起こす)を合図にして地面を叩いたり、止めたりしていたことが解かった。

 この事例のポイントは、オステンが決して詐欺師だったわけではなく、自分でも無意識にこの合図を行い、ハンスが本当に質問を理解して回答していると信じていたということだ。

 われわれは、好ましい事実を選んで身をさらし、好ましい事実の存在に気づき、それを記憶し、そこに低めの証明基準をあてはめるが、オステンがそうだったように、自分がこんなふうにごまかしていることは自覚していない。

 この、自分にとって望ましいように刺激に意味を与えてしまう無意識の習性のせいで、ある出来事が起きたときに自分が抱く感情は、前もってきっとこう感じるだろうと想像していた感情と一致しないことが多々ある。

 本書の例から3つ紹介しよう。

 

愚かな行為よりも、愚かな不行為を後悔する

 やらずに後悔するよりも、やってしまって後悔しよう!

 自己啓発本に出てきそうな文句だが、本書によると、どうやら理に適っているらしい。

 たとえば、A社の株を持っていて、B社の株に替えようか悩んだが替えなかった。そしたら後から、B社の株に替えていれば1200ドルの利益になったということを知る。

 あるいは、C社の株を持っていて、D社の株に替えようか悩んで、結局替えた。そしたら後から、C社の株をそのまま持っていれば1200ドルの利益になったということを知る。

 どちらのケースのほうがあなたは後悔するでしょう?と訊ねられると、ほとんどの人は、C社株をD社株に替えてしまうケースのほうを後悔するだろうと答えるが、実際にはほとんどの人が、A社株をB社株に替えなかったケースのほうをより後悔することになるらしい。

 

 人は、自分がしてしまった行為より、自分がしなかった行為をはるかに後悔する。

 その理由は、行動したことについて明るい意味づけを行う(「良い経験になった」等)ほうが、行動していないことに意味づけを行うことよりも容易であるから。

 なのに人はそのことを自覚していないので、後悔の大きい臆病な選択をしてしまうようだ。

 

変更可能なものより、変更不可能なものを気に入る

 初対面の人や、テレビで見る芸能人の行動としては許せないのに、それが親や兄弟の行動であれば許せるということはないだろうか。

 人は、経験を変えることができなくなってはじめて、経験について見方を変える方法を探しはじめるらしい。

 ある研究で、写真撮影の講座に申し込んだ学生に、仕上がった出来の良い写真2枚のうち、1枚だけ好きなほうを持ち帰らせる実験をした。

 あるグループでは、片方を持ち帰ったらもう変更はきかないと伝え、別のグループでは、持ち帰ってから数日中なら変更可能だと伝えた。

 数日後、参加者の学生に、持ち帰った写真をどれだけ気に入ったか尋ねると、変更不可のグループのほうが、変更可能だったグループよりも持ち帰った写真を気に入ったという結果になった。

 ところで、別の学生グループに、変更ができる場合とできない場合で、どちらのほうが写真を気に入ると思うか予測させると、変更可否は満足度に影響を与えないだろうと予測する。

 我々は、変更不可能な状況になることではじめてその状況に明るい意味づけを行うことができるが、それを予期することはできていない。

 

確実な情報より、不確実な情報が幸せを長引かせる

 大学生を対象とした実験で、ある幸福な状況を参加者に与えて、そのときに感じた幸福度を訊ねたものがある。

 参加者はオンラインチャットで他大生と交流する実験だと説明されて参加した。

 他大生たち(実は皆コンピュータプログラム)とチャットで会話した後で、実験主催者から、一番気に入った人をひとりだけ選んで、選んだ理由と一緒に本人にメッセージを送るように指示される。

 その直後、参加者のもとに、なんと自分以外の全員からメッセージが届く。これが幸福な状況。

 ただし、一部の参加者は、どれを誰が(どのプログラムが)書いたかわかるようなメッセージを受け取り、別の参加者は、どれを誰が書いたものかわからない状態でメッセージを受け取った。

 両グループの参加者に、メッセージを受け取った直後と、その15分後の計2回、どのくらい幸せか訊ねたところ、どちらのグループの学生も1回目の計測時には喜んでいたが、15分後も喜びが変わらなかったのはメッセージの主が明らかでないグループのほうだけだった。

 

 人は不快な出来事に明るい意味付けを行うことで不快さを軽減するが、同様に、幸福な出来事への説明付けによって幸福感を軽減してしまうことがあるらしい。

 誰が書いたか明らかなメッセージを受け取った参加者は、この突然起きた幸福に適当な説明付けを行うことができた(「○○さんは映画好きという共通点を認めてくれたんだな」等)が、送信主の不明なメッセージを受け取った参加者にはそれができなかった。

 そして、この説明付けができなかった場合のほうが、幸福感が持続したということである。

 このことの理由についても本書では考察されているが、それを紹介せずとも、過去の経験から心当たりのある人も少なくないんじゃなかろうか。

 手品の種を知った途端に「なんだそんなことか」と急にしらけてしまったとか、あるいは下駄箱に入っていた送り主不明のラブレターについて何日間もあれこれ妄想を膨らませてにやけたりとか。

 

 ともかく、重要なのは、不確実さが幸せを長続きさせるのに、普通我々は確実さを求めてしまうという点だ。

 上述のチャットの研究でも、別の学生グループに、メッセージの送り主を知りたいかどうか訊ねたところ、100%の人が知りたいと答えたらしい。

 

なぜ何度も同じ過ちを繰り返すのか

 ここまでにいくらか紹介した通り、想像には欠点があるのに、我々がその欠点に気づいていないせいで、我々はしばしば選択を誤る。

 しかし、同じような選択ミスを繰り返せば、いいかげん気づきそうなものではないのか。答えは否。

 なぜなら、我々の記憶にもやはり欠点があるからだ。

 

 本書によると、記憶には以下のようなクセがある。

 1. 心に浮かびやすい物事=よく起こる出来事と思い込みやすい。

 2. 出来事の特に最後の部分のことがよく思い出される。

 3. 感情の記憶の多くは、現在の自分が「こう感じたに違いない」と考える感情である。

 

 どれもなんとなく思い当たる節はあるだろう。

 詳細は本書を読んでいただければと思うが、特にショッキングなのは3番目だ。

 我々が何かを思い出そうとして、頭にそのときに見た光景を思い浮かべているとき、実際にはそれは、記憶がいろんな情報を使って新たに構築し直したイメージなのである。

 思い出すための情報が足りない場合、脳は事実や仮説を使って「こうであったに違いない」という記憶を作り出すし、同様にそのときに自分が感じたであろう感情までも「こう感じたに違いない」という推測で作り出す。

 実際、記憶に関する確信度の高さと記憶の正確さは必ずしも一致しないということは、目撃証言の研究などでも報告されている話なので、この話自体は特別驚くべきことではなかった。

 しかしショッキングなのは、最初に述べたように未来の感情の予測が正確でなく、かつ過去の感情の記憶も正確でないのに、この両者が一致する場合があるという話だ。

  どうやら、先見と回顧は、どちらも実際の経験を正確に反映していないのに、完全に一致する場合があるらしい。幸せをもたらすという予測(「ブッシュが勝ったら、わたしは大喜びするだろう」)につながる仮説は、たしかに幸せをもたらしたとわれわれに記憶させることで(「ブッシュが勝ったとき、わたしは大喜びした」)、 陰謀の証拠を消してしまう。そのため、自分の予測がまちがっていたと気づくのはおそろしくむずかしくなる。 

 

正しい選択をするための方法は?

 人は自分の過去の経験を頼りに正確な判断をすることができない。

 ということは同様に、先人にアドバイスをもらおうと思っても、先人の記憶もあてにならないので、他人の過去の経験を頼りにすることもできない。

 

 さらっと結論を書いてしまおう。

 唯一の解決策は、「自分が予測している出来事を今まさに経験している人に、どんな気持ちか訊ねる」である。

 単純すぎると思われる方には、ぜひとも本書の最終章をお読みいただきたい。

 想像をやめ、代わりに他人の感情に身を委ねることを擬似的に再現した実験によって、赤の他人の感情が、自分自身の予測よりも正確になり得る可能性の簡単な検証を行っている。

 これはなかなか説得力のある提言だ。

 

 個人的に、しいて気になった点をあげるとすれば、あれだ。幸せってつまるところなんでしょうって話になるんだけど…。

 たとえば、20歳のときの出来事を30歳、40歳、50歳で、いつ思い出しても幸せな記憶であるのならば、仮にそれが誤った記憶(=当時はそこまで幸せでなかった)であったとしても、それはやっぱり幸せ(正しい選択)と見なし得るんでないかなーなどと思ったりした。

 結局、いつ幸せなのが一番幸せなんだろう。

 死ぬときに振り返って「ああ、幸せな人生だった。」って言いたい気はしますよね…。

 

 

明日の幸せを科学する

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