10月13日。関東某所のビジネスホテルで、殺人台風19号の直撃にオドオドしながら深く布団に潜って明くる朝、目が覚めたら、呆れるほどに雲も何もない真っ青な空が広がっていた。
不意をつかれた俺の中の落ち着きのないピアニストの人格がハレノソラシタハレノソラシタ騒いでいたせいで写真を撮ることにすら頭が回らなかったので、代わりといってはなんだが上の画像は餃子氏である。
その晴れ渡りっぷりにびっくりして、職場でこっちの―内地の人間に「こんなんなるんですねー」って言ったら、ん?という顔をされてから、ああそうか、この未開の地の民は台風一過も知らんのかという解にたどり着いた様子で、ええそうなんですよーと答えてくださったが、そうなのだ。
極寒の地で車の排気口から垂れ下がる灰黒いつららを集めて喜ぶ不幸な幼少期を過ごしたこの未開人は、この歳になるまで「台風一過」というものを言葉でしか知らなかったのだ。
その事実にちょっと自分でびっくりした。台風くらい何度も経験しとるわ!と思ってたけど全然してなかった。
無知の知という言葉があるけれど、大人になるととにかく何でも、専門的なことはわからないけれどなんとなく理解してるという気分になっていてやばい。全然知らないのに。
小さい頃は目に映る世界の100のうち95くらい知らないことばかりで、大人になれば80くらいはわかるようになるだろうと思っていたけど、実際は50も理解できることがない。
しかしやばいのはそこではなくて、なんとなく70くらいはわかったつもりになっていることがやばい。
なにせ、年々体験世界が安定していってるなーと思う。年々。
明日起こること、週末起こることの予測の確度がぐんぐん上がる。
もちろんそれは、自ら望んでそういう環境を選び取ってきた結果だ。
予測できる範囲の楽しいイベントを心待ちにして過ごし、予測できる範囲の災難を想像してため息をつく。
そうやって精神的安定を保てるというのはある種幸せなことではあるのだろうけど、不意にアンノウンに頬を叩かれて一瞬横を向いたときに、知らないこと、見たことのない現象、出会ったことのない人、味わったことのない食べ物、その圧倒的な多さに気づいてしまう。
先日、古い友人らと再会したときに、歳相応の大人にならんとねとか話していたら、オトナってなにかねという話になったんだけども、そこである一人に話された定義が気に入った。
大人と呼ばれる年齢まで生きていると、皆それぞれに、食べ物には最低限しかお金をかけないだとか、洗濯したあとの服は畳まないでタンスにつっこむとか、休日は昼まで起きないとか、もうすっかり固定化されてしまった習慣というのが増えてくる。
そういう、もう変えられないと思い込んでいる習慣を、変えてみようと思えること。
晩酌をやめてみる、定期的な運動を始める、1時間早く出社する、自分から挨拶する、絶対自分は悪くないと思っている喧嘩のあとに自分から謝ってみる、普段聴かない音楽を聴いてみる等々、もう自分はこういう人間なんだと思っていることを、ちょっと変えてみる。
そういう変化に対する抵抗を無くせることがオトナなのだと。ほほおん。
はやくも2014年が終わろうとしている。
貪欲に世界を味わっていかないとあっというまにラストオーダーのお時間となりそうだ。