ロックンロールに蟀谷を

踊れないほうの阿呆。Twitter:@oika

優秀な人間のみを雇用する企業は善か悪か

 すごく漠然としたもやもやを言語化しようというあれだが、企業が優秀な人間のみを雇用しようとすることは善なのか?なんてことをぼんやりと考えている。

優秀でない人間を解雇することは悪

 たとえば職場にどうにも生産性の低い人がいるとする。人の話を1度で理解できない。しかし理解したつもりになって間違った道で突き進む。他人へわかりやすく話をまとめて説明することができない。文章表現も支離滅裂になりがちで必ず校正を必要とする。

 それでも本人に熱意はあるのかというと、そういうわけでもない。遅刻や無断欠勤をすることはないが、指示されたことにだけ最低限やっていれば給料はもらえるんでしょ?という感じ。

 会社としては、彼を雇用していることは益にならない。では彼をクビにできるかというと、どうやらそれは許されていないようである。

 労働契約法第16条には以下のようにある。

解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。

 このあたりはまるで素人知識だが、過去の判例を見るかぎりでは、「仕事ができない」「熱意がたりない」くらいでは、とても合理的な理由とは認められていないようである。

 つまり、企業が意欲・能力の低い人間を解雇することは悪である。
 

障害のない人間だけを雇用することは悪

 そりゃあ一度は合意の上で雇用契約を結んでいるわけだから、それを一方的に解雇するのはダメって話じゃないの?とも思う。

 では、雇用を決める段階までは完全に自由な選択が赦されていて、優秀な人だけをうまく見抜いて選抜すればいいという話なのか。

 ところがここに、「障害者雇用促進法」という法律がある。

 これは、障害をもつ人に対しても募集・採用の機会を均等にしなさいよというだけではなく、雇用する労働者のうち、2.0%*1以上は、障害をもつ人から雇用しなければならないということを定める法律である。

 障害がある人間は生産性が低いということを言いたいわけではない。そうではないが、この法律の意味するところは、障害者の雇用は社会的に保障されるべきであり、それを保障すべきはこの社会に存在するすべての企業・雇用主だという 社会連帯 の存在である。

 障害者雇用促進法の第37条にも、以下のとおり 「共同の責務を有する」 と明記されている。

すべて事業主は、身体障害者又は知的障害者の雇用に関し、社会連帯の理念に基づき、適当な雇用の場を与える共同の責務を有するものであつて、進んで身体障害者又は知的障害者の雇入れに努めなければならない。  

優秀な人間のみを雇用することは善なのか

 さて、それでは従業員のうち2.0%は障害をもつ人から採用するとして、障害のある人を選ぶときでも障害のない人を選ぶときでも、できるだけ生産性の高そうな人だけを選ぼうとすることは善なのか。

 たとえば先ほどの障害者雇用促進法が対象とする「障害」には、知的障害や精神障害が含まれるが、その診断のボーダーはなかなかに曖昧なものである。

 診断名のついたものは保護の対象で、そうでないものは競争原理のもとふるい落とされても仕方がないのか、といったあたりがどうにももやもやとして解決できなくなってしまっている。

 仮にそれが悪、つまり選びたい人だけを選んでビジネスすることが悪だとしたら、ええ…そうなの…という気持ちもある。コヨウヌシというものになるからには、そこまでの社会的責務を負わないとならないものなのか、というのもそれはそれでむむむっとなる。

 生産性が高い・低いは人の優劣じゃなくて、職種ごとの向き・不向きでしょ? その仕事に向いていない人を採用するのは互いに不幸なだけでしょ、という意見もあるかと思う。

 でも、それが一番ずるい気がしてしまう。

 うちには向いていないけど、他に合う仕事があるはずだよ、というのは真理な場合もあるだろうけど、生産性の低い人間をふるい落とすことにいくらかの罪悪感をおぼえるならば、それを隠す免罪符のために使ってはいけないのではないか。
 

*1:民間企業の場合。平成30年4月1日からは2.2%、平成33年4月までにさらに0.1%引き上げ。